第80回 東海教育社会学研究会の報告

報告者:中島葉子 氏(岐阜聖徳学園大学)
報告題目:「日本人であること」はどのようにして維持,変容されるのか―関係性の変容に着目したエスニシティ研究―
日時:2013年8月3日(土)15:00~17:30
会場:椙山女学園大学 星ヶ丘キャンパス 大学会館3階 中会議室

 中島氏は2008年にまとめた自らの博士学位論文の内容をもとに今回の報告を行った。ただし理論的枠組みを提示した前半部分は学位取得後の検討成果であり,調査結果を提示した後半部分も枠組みの新たな検討に伴って,修正が加えられたものであった。ここに研究と向き合う氏の真摯な姿勢と弛まぬ精力が窺われた。
 氏によると,本報告の主題は「ニューカマーの教育支援や多文化共生のまちづくりを目指す現場で繰り広げられる日本人-外国人の関係構築のプロセスや人びとの解釈を分析の対象として,日本人がマジョリティとしての『日本人であること』をどのように構築し,また変容させていくのかを明らかにする」ことである。
 報告で使用したデータは2003年から2007年にかけて蒐集したものである。中心となる2つのデータは,臨床的アプローチによって得られた。1つは外国籍児童生徒の学習支援活動を行うNPO法人スタッフ6名を対象とするインタビューおよび参与観察である。氏自身もこの法人に調査以前からボランティアスタッフとして参加していた。もう1つは,1年間の委託契約によるM市「多文化共生」事業内で得られた臨床的データおよび事業終了後に行われた事業参加者に対する個別インタビューである。
 前半部で氏は報告の依拠する理論的枠組みを提示した。それを1言で表すと「排除と〈共生〉のコミュニケーション」である。「コミュニケーション」は氏の大学院入学時における主な着眼点であったが,その後いったんは別に視点を移した。しかし近年の検討をとおして再びこの視点へと回帰しつつあると氏は述べる。氏を回帰に導く理論的な検討過程が以下である。
 「排除や差別の『対岸』は存在しない」「人は誰でも差別や排除の当事者である」などとは従来から指摘されてきたものの,その根拠は明示されてこなかった。その限りにおいて,それらの言説のインパクトは弱まらざるを得ない。そこで氏は2つの問いを立てる。第1にそれらの言論の「理論的根拠はどこに見いだせるか」,第2に仮にその根拠を定めることができたならば,次に「『人は誰でも差別や排除の当事者である』ことは,人々の日常の中でどのようにして実践されているのか」である。
 第1の問いに対して氏は,コミュニケーションが権力そのものであるということに,その根拠を見出す。従来,コミュニケーションは権力を発揮するという目的にも使える「道具」として捉えられてきた。しかしその限りにおいて,それは必ずしも権力と結びつくわけではない。権力とは無縁のコミュニケーションも存在し得ることになる。しかし,氏はミードの社会的自我論やパーソンズらのダブル・コンティンジェンシー論を引きつつ,コミュニケーションをカテゴリーの構築および執行過程と不可分であると捉えることによって,「複数であり得るもののなかから自己と他者を『ある者』として同定していく暴力」であると論証する。つまり氏は,コミュニケーションを行う以上,あらゆる人が排除や差別の当事者であるとするのである。
 そして氏は第2の問いの検討を進めるために有用な概念を2つ提起する。1つは「日本人性」である。これは,社会的に優位であるにも関わらず,それを少しも特別なことであると考えずに躊躇も屈託もなく「私は日本人である」と言表できてしまう,「日本人」の側の指向性への注意を促す。もう1つは「当事者性」である。これは,社会問題に関わる人々の,問題に対する解釈や関わり方の変化に伴って「だれがどのように『当事者』になるのか」に着目させる。
 以上の枠組みを下敷きにして,氏が見出した知見は2点であった。
 知見1はNPO法人スタッフ6名に対するインタビューから解釈的に導き出した,支援活動における当事者たちの関係性の2つの局面である。1つは「支援のパラドックス」という「排除のコミュニケーション」である。これは「支援をすること」自体がパターナリズムに陥ってしまう結果,「依存される(依存させる)-依存する(依存させられる)関係」を強化してしまうということだ。ニューカマー保護者はますます「可哀想な他者」となり,スタッフはますます活動にやりがいを見出す「我々」となる。権力関係はますます組み換え不可能となり「日本人」の権力性は維持される。社会に利益をもたらすとされるボランティア活動は,つねに両義的であり,このような陥穽と背中合わせである。もう1つは「『一緒に考える』関係」という「〈共生〉のコミュニケーション」である。これはニューカマー保護者が自らの抱える不安や現実を訴え,スタッフもまた見えている事柄を伝えながら,共に解決のあり方を探そうとすることだ。この関係性はスタッフ側が「ニューカマー保護者の〈当事者性〉に向き合うこと」と「マジョリティであり続けながらも,『私の問題』として語り直すこと」という2つの要件を充たすことによって実現される。すなわち支援者が自らの中に「複数の私」をもち,異なる立場があり得ることを受容することによって,子ども-保護者-スタッフという「個々具体的な三者」が「それぞれの『私』に何ができるか」という新たな問いのステージに上ることができるのである。
 知見2は「多文化共生」事業の参加者に対するインタビューから見出した「コミュニティづくりにおける〈共生〉のコミュニケーションプロセスモデル」である。事業において,多様な関係者が参加し,かつ自身が司会役割を務めた6回のワーキンググループの分析から,氏は「〈共生〉のコミュニケーション」のあり方の発展プロセスを4段階のモデルとして捉えた。Ⅰの「個別の居住者」段階では,異質な者同士がただ同じ空間に存在する。Ⅱの「『語る-聞く』関係の構築」段階になると参加者は「聞く存在」を認識し始める。ただし語りは集団の代表としての「独白調」であり,呼びかけにも個人名が登場しない。しかしⅢの「『語りそして聴く』関係の構築」段階では,一人一人の参加者が語りもし聴きもする。語りは一人称,呼びかけは個人名となる。そしてⅣの「『ともに住まう者』としての住民」段階では,参加者は相互に「居住地区の問題解決をはかりながら,内部の差異から生じるニーズに応え」ていく。この段階に至って,個々の参加者が用いるカテゴリーは再定義(刷新)され〈共生〉が達成される。ここで「一人称で語り,個人名で呼びかけること」は,まさに「定義づけの暴力」である。暴力は,ある場合には克服されなければならないものであるが,別の場合にはそれこそが「逃げることのできない具体的なコミュニケーション」を生み出し,権力をめぐる関係性の肯定的変容をもたらすものにもなり得るのである。
 最後に,以上の知見に関する今後の課題として,氏は「線形モデルではなく螺旋形モデルの構築」と「『聞く』という行為とコミュニケーションの権力性についての精緻化」の必要性を提起した。さらにニューカマー研究の「次」の方向性として,「複数性」「多様性」「多層性」が叫ばれる中で,それらを単に"事例によりけり"と済ませるのではなく,「グローバリゼーションの現実」という「共通の枠組み」と結びつけて解釈するための視座の構築が喫緊に求められると訴えた。
 質疑応答では,フロアと氏との間で活発な討論がなされた。主な論点を以下に列挙する。コミュニケーションしないことによる定義づけの暴力を理論的に取り入れているのか。コミュニケーションに対する理論的立場。コミュニケーションとディスコミュニケーションとの線引き問題(対面/非対面,意図/無意図)。「日本人であること」の変容とはどういう状態を指すか。クラスルーム研究とエスニシティ研究における「排除」の共通性と差異性。支援側は依存されることを求めているか。ボランティア活動や支援活動における主体のインセンティブとは。支援側の主体が問題を「私の問題」として捉え直すことの具体的イメージとは。
 今回の報告は,フィールドの活動に長期にわたって自ら参加しながら地道に収集したデータを,丁寧に精査し組み立てた理論的枠組みを用いて,微に入り細を穿って緻密に分析した,苦心の作であった。臨床社会学的アプローチを採用し,研究者自身の自己省察をも伴いながら当事者のエンパワーメントに深く関わる挑戦的な取り組みでもある。それだけに多様な観点から,有意義な論点を隅々まで見つけることができ,研究会参加者にとっては大変刺激的で,学びの多い充実した機会となった。エスニシティ研究の将来的な展望に対する新しい視野を得ることもできた。


(文責 肥田 武)

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