第90回日本社会学会大会 テーマセッションの詳細

投稿日:2017年04月20日 カテゴリー:大会情報  投稿者:学会事務局

【1】アートベース・リサーチの可能性と実践——アートを用いる社会学の多様性
 ①コーディネーター:岡原正幸(慶應義塾大学)
 ②趣旨:
 社会学のアートへの関わりは、もっぱら芸術(作品、活動、制度、芸術行為者など)を社会学が研究対象にするという方向性で実現されてきた。しかし、1970 年代からの思想、政治状況を経て、新たな試行がある。それは科学的作業の最終的なアウトプットを文字媒体を主とするテキスト中心主義ではなく、写真、映像、パフォーマンス、ダンス、演劇、あるいは平面、立体、インスタレーションなどの美術、サウンドや音楽、さらに文字媒体だとしても小説や詩や戯曲などの文学として公開する研究スタイルである。アートベース・リサーチ Arts-Based Research (ABR) と総じて呼ばれる。昨年度の大会ではじめてこのABR をテーマにセッションを開設した。7本の報告が集まるセッションだったが、それらは、もしABR が掲げられなければ、理論、歴史、文化、コミュニティ、宗教、調査法といった部会にそれぞれが分かれて発表されていたものである。つまりそれぞれの発表者が、このセッションがなければ、学会で交わることなく、討議も生まれなかっただろうということである。それはコーディネーターにとって新しい発見だった。
 今回もそのような効果を期待して、ABR を主軸にしたセッションを開設する。現に個別に実践されている色々な試行が集うことで、その学術的な意義や可能性を吟味し、「アートベース社会学」への道筋をつけたい。利用されるアートのジャンルは広くとらえ、報告ではその具体的な実践を歓迎する。昨年は映画上映やダンスも披露された。また最終産物としてではなく研究過程・教育実践でアートを積極的に利用する試みも歓迎する。写真や動画を用いたフォト・エスノグラフィや映像社会学の作品。聞き取りやエスノグラフィの成果を上演する演劇やパフォーマンス。インタラクティブに公共性を目指すインスタレーションやアートプロジェクト。展開の方向性は多様である。今回はさらに、リレーショナル・アートやソーシャリー・エンゲイジド・アートといったアート側からの社会学的なテーマや実践への接近に関する研究も歓迎する。実験的な研究実践が披露され、実践の実演(上映)、実践についての報告、広義のABR に関する理論的な研究など、このセッションではいずれも可能です。
 ③使用言語:日本語

【2】社会学とマンガ研究——個人と集団・組織
 ①コーディネーター:茨木正治(東京情報大学)
 ②趣旨:
 社会学とマンガ研究の接点を求めて、以前社会学会テーマセッションにおいて、「ひと」をどのように研究対象とするかを考察した。今回は、その「ひと」が集団や組織を構成することが個人にどのような作用を及ぼすのかに焦点を当て、社会学とマンガ研究との類似点・相違点を探る。個人と組織・集団を意識した社会学やマンガ研究の重要性を明らかにすることを、このテーマの目的とする。集団・組織が制度化されるにつれて、個人との乖離が生じやすくなる。その結果社会学研究の成果にも個人と集団組織との相互作用の視点が失われる危険がないとは言えない。他方マンガ研究も社会・集団・組織一般とのかかわりが薄まれば、特定個人や組織・集団の広報や閉じた娯楽に陥る危険があるからである。
 このテーマの射程は、社会学の組織・集団論、マンガ内容研究における個人と組織の相克の研究にとどまらない。むろん、マンガの内容に個人と集団・組織との問題を見出し、そこに社会学の諸研究を導入したり、社会学の個人と集団・組織の諸研究を例証する際にマンガを取り入れることもこのテーマセッションの範疇にはいる。しかしそのような単なる「相互乗り入れ」を超えた視点をもこのテーマには含まれる。個人と社会、組織・集団との相克が生まれる前提として、個人の視点から集団・組織が、また集団・組織から個人がどのように見えるかを、公共性と個人、集団主義と個人といったことから考えることも含まれる。また、マンガ研究においては、表現の自己規制や、出版規制をもたらす過程において、制作における個人(漫画家)と編集者、および出版社との関係が作品内容にどのように影響を及ぼすのかを考えることも含まれよう。これらの問題を時空間的に拡張して、歴史的、比較社会・文化的にとらえる視点もまた想定されよう。
 マンガ研究,社会学研究の双方からの独自の視点を持った報告を期待する。
 ③使用言語:日本語

【3】〈文化遺産〉と〈歴史的環境〉の交差と展開を目指して
 ①コーディネーター:森久聡(京都女子大学)
 ②趣旨:
 現代社会では、あらゆるものが「消費」される一方で、あらゆるものが「保存」されつつある。こうした現象をめぐっては、1990 年代の末頃から、環境社会学や地域社会学・都市社会学のなかで、居住者・生活者の視点に立った「歴史的環境の社会学」の事例研究が蓄積されてきた。これに対し、2002 年に出版された荻野昌弘編『文化遺産の社会学』(新曜社)は、いわゆる「負の遺産」のような、必ずしも生活者の視点からだけでは語れない遺産の保存も視野に入れて、文化遺産を保存することが現代社会にとってどのような意義を持つのかという根本的な問いを提起した。
 2000 年代以降、文化遺産の量的な増大に加えて、近年は文化的景観、産業遺産,などの新しいジャンルの遺産も生み出され、有形無形のものが様々な主体(ユネスコや国、自治体だけでなく、企業や学会など)によって「保存」されてきた。他方,被爆体験や熊本水俣病や大規模災害、ハンセン病など負の歴史についても保存と継承が社会的な課題となっている。そして,これらの歴史や記憶は単に貴重だから「保存」されるのではなく、観光資源として活用され,消費の対象にすらなってきている。むしろ、消費の対象になりうるものだけが「保存」されるべきものとして選ばれる状況すら生じているのだ。
 こうした「保存」をめぐる社会的な現象に対して、〈文化遺産〉と〈歴史的環境〉の社会学は何を語ることができるのだろうか。そして一見すると重なり合う両者のまなざしは,どのように交わり合っている/いないのだろうか。
 本セッションでは、こうした切り口から「文化遺産の社会学」あるいは「歴史的環境の社会学」の課題を浮き上がらせ、今後展開されるべき方向性を検討しようとするものである。募集する個別の報告としては、国内外の事例研究はもちろん、計量的研究や研究・学説史のレビュー、理論研究も歓迎したい。なお,本企画は、昨年度のテーマセッション「「文化遺産の社会学」を再考する」を引き継ぐものだが、むしろ前回参加していなかった報告者のエントリーを期待している。
 ③使用言語:原則として日本語

【4】ムスリム移動者とその子孫の社会学
 ①コーディネーター:店田廣文(早稲田大学)
 ②趣旨:
 日本におけるムスリム移動者に関する社会学的研究としての金字塔的書物『国境を越える——滞日ムスリム移民の社会学——』(樋口直人・稲葉奈々子・丹野清人・福田友子・岡井宏文共著、青弓社、2007 年10 月)が刊行されてからちょうど10 年になる。樋口による同書の「まえがき」によれば、刊行時期はムスリム移動者が滞在し始めて20 年に当たるとのことである。
 したがって、今年はムスリム移動者が日本に比較的多数流入し、滞在し始めてからほぼ30 年に当たるが、来日後に家族形成を行ったムスリム移動者たちの2世が進学、就職、結婚等のライフイベントを迎えてさまざまな困難に直面しつつあり、それらに関する社会学的研究も行われるようになっている。また、世界各地における「イスラーム」過激派のテロ活動等により、1世だけでなく、2世も「イスラーモフォビア」に直面している。
 提案者は2005 年に滞日ムスリムに関する質問紙調査を実施したが、その後フォローアップ調査実施の環境が整わないこともあり、イスラーム・ムスリムに関する日本人住民意識調査やモスク調査を実施してきた。また、前述の書物の著者や他の社会学者による国内のムスリム移動者とその日本人配偶者・子孫に関する実証研究も増加しつつある。
 他方、西欧諸国では1973 年の第1次石油危機後に比較的多くのムスリム移動者が留まったことにより、ムスリム移動者とその子孫の社会的統合・排除が早くから問題となり、社会学的研究の蓄積も多い。特にムスリム移民2世・3世の若者の教育・雇用等における社会的排除やイスラーモフォビアが問題となっている。また、近年では日本人社会学者による実証研究も増加しつつある。そこで、本セッションでは内外でムスリム移動者とその子孫に関する実証研究を実施している本学会会員による積極的な研究成果の報告を期待するものである。なお、近年の日本では観光客、留学生、難民認定申請者、技能実習生等として短期・中期に滞在するムスリム移動者も増加していることから、長期滞在者以外のムスリム移動者に関する研究の報告も歓迎する。
 ③使用言語:日本語

【5】専門知の「コミュニケーション」的転回批判——科学技術と社会の界面にて
 ①コーディネーター:小松丈晃(東北大学)
 ②趣旨:
 専門知、民主主義、政策の相互関係を社会に開かれたものにするという文脈で存在感を増したのが、いわゆる科学技術「コミュニケーション」である。欠如モデル批判、双方向コミュニケーションの重要性、対話型イベントの必要性などが、今や行政の実務担当者、政治家、研究者のいずれであるかを問わず、広く人口に膾炙し、さまざまな形態で制度化されてきた。
 しかし、市民の側の関心、意向と、政府・関係機関・関係研究者などのいわゆる「推進」側の「コミュニケーション」の力点がすれ違い、やりとりが実際には「コミュニケーション」たりえていない場合、その結果、既存の政策軌道に対して実質的影響力を持ちえていない場合がしばしば見受けられる。社会における関心や懸念と合致しない内実を持つ「コミュニケーション」が「広報・啓発」のかたちで展開されることが、議論の深まりや問題解明をむしろ阻害している場面すらある。
 こうした「すれ違い」構造は、軍、官、産、学、民各セクターの思惑の異同として批判的に記述、分析されうる。とりわけ、科学技術と社会の界面で予想外の事故や災害といった極限の問題が発生する場合、民セクターの特定の当事者が社会的受忍を強いられ続けることがきわめて多く、他のセクターとの間の著しい不均衡を前提にしたままレジリエンスが説かれることも少なくない。そして、そのような「マタイ効果」の負の側面を非可視化する役割を科学技術と社会の界面に介在する「コミュニケーション」が結果として演じる可能性に十分な注意が払われていない。
 そこで、本セッションでは、地球環境問題、再生医療、原子力といった科学技術の問題をはじめ、分野横断的に予想外の事故や災害を視野に収めつつ、科学技術と社会の界面に「コミュニケーション」が介在するという科学社会学・科学論の「第三の波」以降の仕組みの功罪と、その社会学的な含みを批判的に分析したい。
 ③使用言語:日本語

【6】社会学における理論と実証──経験的データの意味再考
 ①コーディネーター:常松淳(日本大学法学部)
 ②趣旨:
 社会学では,各分野の研究者たちが,さまざまな(量的・質的)社会調査を通じて多くの経験的データを収集し,その分析を核として学問的実践を積み重ねている。これに対し,社会学においてテーマが著しく拡散し,そこに共通の理論枠組みも見あたらないため,学問としてのアイデンティティが社会調査に求められてしまう現状を危惧する声もある(盛山 2011)。いずれにしても,社会学がまずは経験科学であろうとする限り,学的主張を支えるものとしての経験的データの扱い方は基幹的である。経験的データは,社会学理論や仮説とどのような関係にあるべきだろうか?経験的データは科学的「証拠」となりうるのだろうか?そもそも,社会学における理論とは何か?社会学理論は経験的研究においてどのような役割を期待されているのか?経験科学としての社会学はいったい何を目指すべきなのか?── Merton を初め長く論じられてきた「社会学における理論と実証」というテーマの下で,本セッションでは,経験的データの意味を再考したい。
 量的研究を例に取れば,標本調査データの蓄積と分析手法(および計算機の処理能力)の発展により,統計分析による実証研究は広く行われている。一方,近年では,標本調査に特化してきた社会学がいわゆるBig Data の利用可能性によって周縁化してしまう「危機」(Savage & Burrows)や,(社会)心理学を中心とした領域で,出版された分析結果の多くが他の研究者によって再現されない「危機」が改めて注目を集めるといった状況も生じている。社会学はどのような経験的データを必要としているのか,データ分析にかかわる(社会学の)研究慣行に問題はないのか,各種のモデルと理論との関係はどうあるべきか等,いま振り返って検討すべき課題は多いと考えられる。量的研究における因果推論・分析社会学・計算社会科学・ベイズ統計学,質的研究におけるQCA・CA・GTA の展開など,経験的データの扱いをめぐる近年の動きを視野に入れつつ,このセッションでは,自らの具体的な研究課題に関連づけて,社会学における経験的データの役割や意義,社会学理論とのあるべき関係について建設的な提言を与えてくれる研究者の報告を募りたい。
 ③使用言語:日本語

【7】障害の社会学
 ①コーディネーター:榊原賢二郎(東京大学)
 ②趣旨:
 前回大会で、テーマセッション「障害の社会学」は6 本の報告を得て成立した。そこでの報告内容は、いずれも障害研究における社会学の可能性を感じさせるものであった。そのため本年も、障害の社会学という領域の更なる発展のため、同名のテーマセッションを企画した。
 1970 年代以降、障害者運動の中から、障害の社会モデルという障害観が提起された。この障害観は、障害を医学的欠陥として把握する従来の障害観(「医学モデル」) とは異なり、障害とは社会的障壁に由来する排除や不利益であるとする。この障害の社会モデルを中心とした障害学という研究領域も発展した。
 しかし、障害に関する社会学的研究は、障害の社会モデルに限定されるわけではない。実際、前回のテーマセッションでは、障害の社会モデルでは周縁化されかねない主題が取り上げられた。例えば、障害者個人が能力を備えることと、社会モデルが支持するような社会の変化の関係性について報告された。障害の社会モデルでは、こうした視座は医学モデル的であるとしてタブー視されかねない一方、障害の社会学はそうした問い直しを可能にする。また、いわゆる「グレーゾーン」についても取り上げられた。対象者が障害者と呼べるかどうか、対象となる身体的条件が損傷に該当するかどうかが論争的である事例を社会モデルで論じることには、少なからぬ困難が伴うが、障害の社会学は、人々の状況への意味付与を通じて、そうした事例を探求できる。このように、障害の社会学は社会モデルに還元されない意義を有する。
 本セッションでは、障害に関わるあらゆる社会学的研究を歓迎し、障害の社会学の更なる発展を図る。理論や制度だけでなく、様々な実践に関する研究も広く対象とする。また、障害の社会モデルを採用する必要はなく、医学や福祉に対する多様な立場を受け入れる。その代わり報告者には、社会学というディシプリンの中で障害研究を行なう意義を明示することを期待する。
 ③使用言語:日本語

【8】都市空間の変容を考える——2000 年代以降の東京を焦点として
 ①コーディネーター:山本理奈(東京大学)
 ②趣旨:
 本テーマセッションの目的は、東京という都市の空間変容の内実について、具体的かつ多角的に議論することにあります。
 日本社会は、2005 年に、合計特殊出生率が 1.26 と過去最低の値になると同時に、高 齢化率がはじめて 20%を超え、少子高齢化の渦中にあります。また、日本社会全体の人口減少が明らかとなり、とくに地方都市における人口減少の厳しい現実が懸念されてい ます。しかしながら、こうした日本全体の趨勢とは対照的に、東京都では、「都市再生」 の掛け声とともに、21 世紀に入ってから人口が急速に増加していきました。
 日本の人口減少が問題視されるなかで、人びとが東京に吸い寄せられてきたという事実を、社会学はどのように考えればよいのか。言い換えれば、「この動的な社会過程で〈東京〉と呼ばれる都市は一体どんな現実を孕み、また、その現実は地方の現実や国土 全体の現実とどんな関係で結ばれているのか?」(『季刊 iichiko特集現代都市の社会学』126 号、2015 年)。このような疑問が、このテーマセッションを企画した問題意識の根底にあります。
 東京への集積・集中という社会現象は、高度経済成長期における農村から都市への人 口移動とは異なる、新たな分析の視角を必要としています。分析の視角には様々な可能 性があると考えられますが、今回のテーマセッションではグローバル化や情報化の影響 をふまえつつ、 ①文化(アート、スポーツ、ツーリズムなど)、②生活(居住空間、階層、 世帯など)、という2つの視角から議論することを予定しています。
 ただし、東京の空間変容に関する考察を深めるためには、東京を内在的視点から分析 するだけではなく、外在的視点から東京の特異性を相対化する分析も重要になると考え られます。それゆえ比較社会学的な視点から、ニューヨークなどの欧米の都市、あるい はソウルなどのアジアの都市において、上記の視角から研究されている研究者の参加も 歓迎いたします。
 ③使用言語:日本語

【9】Becoming “Victims” ——「被害者」になるプロセスの社会学的検討
 ①コーディネーター:佐藤 哲彦(関西学院大学)
 ②趣旨:
 健康被害には、発症を自覚したり、診断が下されたりした時点で「被害」として公に定義されるとは限らないものが多分に含まれる。いわゆる「薬害HIV」問題の場合、「加害者」や原因を同定し、責任の所在を明らかにするために法廷で問題開示をおこなうなど、被害を顕在化させるために長い時間を要した。このような「被害(者)」が生成されていくプロセスは、 ①「被害」が医学的・メタ的に証明されるプロセス(=(生物)医療化)、②被害者運動に接触し、関与していくうちに自分が「被害者」であることを自覚していくプロセス(=運動参加によるアイデンティティ形成)、 ③法廷などで問題開示をおこない、「被害」と「加害」の社会的承認を求めるプロセス(=承認をめぐる闘争)、などに分節化して議論可能である。これらのプロセスでは、臨床現場や家庭、地域社会、公の場などでの不断のコミュニケーションを通じた病いをめぐるcontestation が展開され、その帰結として「被害」が確定し、「被害(者)」概念が生成すると考えられる。
 本セッションでは、被害者「になる」プロセスに分析の照準を定める各種調査研究や分析枠組みと議論することを通じて、「被害者」をめぐる諸問題をとらえる分析方法を多角的に検討する。研究には、あらかじめ被害者「である」ことを前提とした研究手法の問題点や、被害者になるプロセスからこぼれ落ちる論点など、批判的な考察も含む。おもな分析対象としては薬害問題や公害問題を想定しているが、医療社会学のみならず環境社会学や社会運動研究、科学社会学、理論研究などBecoming Victims のプロセスに関心のある会員の報告を幅広く募集する。なお、セッション開催にあたっては、夏頃に準備会を、さらに終了後は反省会を計画し、この機会を参加者の研究の進展に十分に活用したいと考えている。
 ③使用言語:日本語

【10】在留資格「介護」創設の意義と外国人介護労働者が日本社会へ与える影響
 ①コーディネーター:近藤秀将(立教大学)
 ②趣旨:
 2016 年11 月18 日、在留資格「介護」創設等を内容とする出入国管理及び難民認定法改正法案(以下「改正入管法」とする)が参議院本会議で可決した。政府が改正背景として挙げているのは「高齢化が進む中,質の高い介護に対するニーズが増大」であるが、これは「日本再興戦略」改訂2014(平成26 年6 月24 日閣議決定)「介護福祉士等の国家資格を取得した外国人留学生の卒業後の国内における就労を可能とするため,在留資格の拡充を含む制度設計を行う。」に基づくものである。その為、在留資格「介護」は、「本邦の公私の機関との契約に基づいて介護福祉士の資格を有する者が介護又は介護の指導を行う業務に従事する活動」と規定されており「介護福祉士」という国家資格を在留資格の要件の一つとしている。この点、「介護福祉士」とは、弁護士や行政書士等の士業のように法定独占業務資格ではなく「介護福祉士」という名称独占資格であり、専門的知識及び技術を用いて、身体上又は精神上の障害がある者の心身の状況に応じた介護等を業とする(社会福祉士及び介護福祉士法第2 条2 項参照)。
 したがって、既存の在留資格「医療」や「法律・会計業務」のように「法律上資格を有する者が行うこととされている業務」ではないことから、条文上も単に「資格を有する」という表現になっている。つまり、在留資格「介護」は、国家資格「介護福祉士」を有することを在留活動の本質としていないと考えられる。
 そして、これまで入管法及び入管当局は、「介護」業務を熟練労働ではなく非熟練労働とみなしていたことから、在留資格「介護」の創設は、日本が、外国人非熟練労働者受入れの端緒を開いたと評価できる。
 そこで、本セッションでは、このような日本への《人の国際移動》におけるパラダイムシフトとも言うべき在留資格「介護」創設の意義について明らかにするとともに外国人介護労働者が日本社会への与える影響について考察したい。
 ③使用言語:日本語


【11】ロードサイドの文化社会学—「国道16号線的郊外」をめぐって

 ①コーディネーター:佐幸信介(日本大学法学部)
 ②趣旨:
 国道16 号は総延長で341.1 キロ、実延長は326.2 キロあり、都心から30 キロから40 キロ圏内を走る環状道路である。横須賀、横浜、相模原、町田、八王子、福生、川越、さいたま、春日部、柏、千葉、木更津といった東京の衛星都市を結ぶこの国道は、首都圏の基幹道路として産業を支える重要なインフラとなっていて、多くのトラックが行きかっている。
 同時に、そのロードサイドは、コンビニエンスストアやファミリーレストラン、紳士服店、さらにイオンなどの大型ショッピングモールなど、チェーン展開された商業店舗が立ち並ぶ均質的な空間として語られることがしばしばある。例えば三浦展が「ファスト風土」や「ジャスコ化」などと呼び、若林幹夫が「モール化」と呼び、近森高明が「無印都市」と呼んだものである。そして北田暁大はこうした均質的な郊外空間を「国道16 号線的郊外」と名付けている。
 こうした地域に住む人々、とりわけ若者が均質的消費空間に自足的であり、「ジモト」にこもる傾向が見られていることも、しばしば指摘されている。原田曜平が「マイルドヤンキー」と呼称する層もまた地元志向である。
 一方で多くの住宅がスプロール的に開発され、そこに移り住んだ団塊の世代が多く住居を構える「国道16号線的郊外」は高齢化が進行し、人口減少も始まりつつあり、空き家の増加が進んでいる。国道16 号線は、さまざまな郊外を接合する線分であり、分節化されたもののつらなりである。
 本テーマセッションではこうした郊外ロードサイドとその周辺地域が、どのように言説化され、あるいはどのように表象されているのか、またそこに住まう人々が、国道やロードサイドをどのような空間として生活しているのか、「国道16 号線的郊外」をキーワードに検討していきたい。対象は国道16 号線沿線や周辺地域に限ったものではなく、こうした事象に迫ることができる報告も歓迎したい。
 ③使用言語:日本語

【12】方法としての構築主義の遺産を査定する
 ①コーディネーター:松木洋人(大阪市立大学)
 ②趣旨:
 1990 年の『社会問題の構築』の邦訳刊行をきっかけとして、構築主義的アプローチは、日本の社会学に本格的に紹介された。その後、世紀の変わり目には一種の知的流行となったが、その流行が過ぎ去る頃には「…は社会的構築である」と論じることは陳腐なクリシェになっていた。
 もちろん、このアプローチのプロモーター役を担ってきた中河伸俊が繰り返し強調してきたように、社会問題の構築主義に代表される構築主義的アプローチの眼目は、人々の目から鱗を落とすことではなく、もろもろの現象の社会的構築のプロセスの研究にあり、実際、この間、四半世紀にわたって、このアプローチを採用したり、それに触発されたりした経験的研究の蓄積は続いている。だとすれば、「構築」が陳腐なクリシェになった後も、社会学者が構築プロセスの研究を続けることは可能であり有意義でもあるということになる。
 しかし他方で、クレイム申し立て活動の連鎖に焦点化する社会問題研究の領域を越えて、主題、データ、分析の手法など、実に多様な自称・他称の構築主義的研究が生み出されることによって、構築主義的であることの意味はかなり曖昧になっている。言い換えれば、『方法としての構築主義』という論集のタイトルにあるように、構築主義を社会学の「方法」であると捉えたとき、それを採用することによって何ができるようになるのかは必ずしも明確ではなくなっている。しかし、社会現象が人々の実践によってつくられるものであること自体は、社会学の基本的な認識である以上、構築主義が独自の方法であると主張するためには、このことは避けて通れない問題であるはずだ。
 そこで本セッションでは、構築主義が経験的な社会学研究の方法として何を遺してきたのかを評価することを試みたい。経験的データの分析を行う報告も方法論のみについて検討する報告も歓迎するが、方法としての構築主義がどのような独自の遺産を遺してきたのか、そして、われわれはそのどの部分を相続すべきなのか、あるいは、負の遺産ばかりが多くて相続を放棄すべきなのかなどについて議論する報告の応募を期待している。
 ③使用言語:日本語

【13】社会学理論と<経験的なもの>の再構成
 ①コーディネーター:磯直樹(慶應義塾大学)
 ②趣旨:
 社会調査であれ、歴史研究であれ、社会学の経験的探究(empirical investigations) は常に何らかの理論的思考を伴う。その場合の「理論」とは、仮説検証のための道具かもしれないし、近代社会の見取り図としての壮大な一般理論を提起する企てかもしれない。「理論」がどのようなものであれ、経験的探究における理論的思考の作用とは、〈経験的なもの〉の再構成である。本セッションでは、こうした再構成と社会学理論の関係を解明することを目的とし、様々な理論が事象とどのように結びつきながら〈現実〉や〈事実〉を構築しているのかを議論する場としたい。
 日本の内外で、社会学の経験的探究に用いられるべき「理論」は中範囲の理論であることは、しばしば自明の前提とされている。このことは、分析社会学やグラウンデッド・セオリーの議論に見られるほか、英米で定評のある社会調査の概説書(Gilbert 2008; Bryman 2016) においても確認できる。しかしながら、中範囲の理論こそ「理論」とする立場は、そのメタな立場、あるいは「理論」がどのような理論に支えられているのかという問題は等閑視してしまう。中範囲の理論を用いて情報やデータを整理して分析する際、いかなる中範囲の理論を選択すべきなのか、その選択の拠り所となる別の水準での理論や方法が必要だろう。
 視点を変えるならば、批判理論を中心とした社会学理論の機能という観点からも問題を提起できる。出口(2017) が指摘するように、理論には社会的事実を説明する「道具としての理論」という役割を超えて、既存の事実連関ないしは社会秩序を批判し、新たな社会を構想する「実践としての理論」という役割もある。こうした役割を検討するには、中範囲の理論において重視される情報やデータの説明力の良し悪しだけではなく、別の水準での理論との照らし合わせが必要だろう。
 以上のように、社会学の経験的探究一般において、中範囲の理論のみでは捉えることのできない理論的営みとは何か、さらにその意義とは何かを探るのが、本セッションの目的である。
 ③使用言語:日本語(英語も可)

【14】社会学を基盤にした新しい専門職の可能性
 ①コーディネーター:樫田美雄(神戸市看護大学)
 ②趣旨:
 本セッションは、『理論と方法』31 巻2 号における江原由美子氏の提起(「社会学を基盤にした新しい専門職?」)を受けての企画である。
 江原は、「社会においてまだ解決方法が制度化されていない社会問題領域において、当事者の声を聴き、社会関係調整や情報提供によって解決を図りつつ、その問題の深刻さや解決の重要性を社会に伝え」(江原2016:320)る仕事が現実に存在し、すでに社会学出身者が、そういう業務を行っているのに、資格がない、という問題を指摘している。そして、「社会問題分析という専門性に即して相談者の問題を明らかにできるようなソーシャル・ワークの仕事の確立が必要」(同)と訴えている。
 つまり、既存の心理職とは違って、社会に働きかける職種。既存の福祉職とは違って、法的制度的支援が手薄であるために「心の悩み」と区別されないままになっている部分の問題解決に注力する職種。そういう職こそは、社会学を学んだものがつくべき職であるはずなのに、それに見合った資格がないことを憂えているのである。
 企画者は、この憂いを共有する一方で、 ①このニッチ領域を対象とする専門職は本当に確立可能だろうか、②社会学は、この専門職を支える十分な実践力を持っているのだろうか、③この専門職カリキュラムの圧力は、学部や大学院の教育をどう変えるのか、等の不安をも感じている。
 とはいえ、まずは不安ごと論じてみるべきだろう。「高校での『現代社会』の非必修化」等に見られる社会学の退潮傾向を考えれば、打てる手は打つべきだ。
 以下に演題例を示した。この企画者の想像力を越える視角からの応募を歓迎したい。「『臨床社会支援士』の構想」「『社会調査士』の成功の背景と新資格に向けての教訓」「心理諸学会の資格認定実務の実際とその問題点」「臨床心理士&社会福祉士との差別化は可能か」「私はすでに“臨床社会支援” 実践者−現場からの報告−」「紛争解決支援の新潮流と社会学」「臨床社会学から展望する新資格」「フェミニストソーシャルワークと新資格」「『社会学分野の参照基準』と新資格」「学会は職業人養成機関ではない」等。
 ③使用言語:日本語

【15】エスノメソドロジーと会話分析の半世紀
 ①コーディネーター:秋谷直矩(山口大学)
 ②趣旨:
 ハロルド・ガーフィンケルの『エスノメソドロジー研究』は今から半世紀前の、1967 年に出版された。エスノメソドロジーと会話分析研究は、それから半世紀の間に社会学だけでなく様々な学問領域に広がる一大潮流となった。ただし、エスノメソドロジーと会話分析の黎明期はこの時期より少し遡る。1950 年代の末にイエール大学のロースクールでハロルド・ラスウェルの指導を受けたハーヴィー・サックスが、博士号を得るためカリフォルニア大学バークレー校のフィリップ・セルズニックのもとにやってきた。セルズニックは、そこで法と社会研究センターを立ち上げようとしていたところだった。法と社会研究センターに集まった大学院生たちにサックスがもたらしたのは、ガーフィンケルの『エスノメソドロジー研究』のもとになった草稿だった。
 ガーフィンケルは、ハーバート大学のタルコット・パーソンズのもとで『他我の知覚』で博士号をとり、サックスと会ったのは、ハーバートにサバティカルで戻っていたときだった。こうして、法と社会研究センターの大学院生たち(サックス、エマニュエル・シェグロフ、デービッド・サドナウ等)と、ガーフィンケルとの交流が始まり、エスノメソドロジーと会話分析の基本的な考え方が生まれていったのである。1967 年のガーフィンケルの『エスノメソドロジー研究』とほぼ期を同じくして、サックスの会話に関する講義が始まり、シェグロフの‘Sequencing in conversational openings’ やサドナウのPassing on’ が出版された。
 このテーマセッションでは、半世紀前のエスノメソドロジー・会話分析の社会学的な起源を探るとともに、社会学的な起源をもったエスノメソドロジー・会話分析研究が、どうして言語学、人類学、心理学、コンピュータ科学、ロボット工学にまで半世紀の間に広がっていったのか、その展開について探る。
 ③使用言語:日本語

【16】「ポリティカル・コレクトネス」の社会的文脈再考
 ①コーディネーター:須永将史(立教大学)
 ②趣旨:
 「ポリティカル・コレクトネス(PC)」は,おもに90 年代以降アメリカを中心に広く使われるようになった概念であり、日本でも「政治的な正しさ」などの訳語で知られている。そしてこの概念は,昨年11 月のアメリカ大統領選挙で当選したドナルド・トランプが、選挙期間中にこの言葉を用いて左派やリベラルを批判し、「反PC」の立場を繰り返し表明したことで再び注目を集めることになった。「PC」という言葉はアメリカでは90年代以降大手新聞・雑誌を含む非左派によるある種の「レッテル」として用いられることが多いが、トランプが利用したのはまさにこうした流れだった。
 こうした状況は、2000 年代以降顕著となったバックラッシュ的な動きとも連動しながら日本の言論状況にも影響しているが(ネット界隈の一部では「ポリコレ」という新しい略称も生まれた)、これは人種・エスニシティ,ジェンダー・セクシュアリティ、障害、差別・排除といった社会学が扱ってきた重要テーマにとっても無視することができない動向である。
 また理論的観点から見てもPC という語・概念を用いて形成されてきたコンテクストは主題ごとに異なり、主題ごとに固有のアプローチがとられてきた。同時に、それぞれの主題においてPC 概念が論じられることで、現実の社会に対しても影響を与えてきた。
 以上をふまえてこのセッションは、さまざまな主題におけるPC 概念へのアプローチとその議論の組み立て方を相互に参照する場とする。エスニシティ、人種、移民、ジェンダー、セクシュアリティ、障害、差別、排除、マイノリティ、社会運動といった関連領域の研究者はもちろん、歴史社会学やレトリック研究などのアプローチも含め、幅広い分野の研究者の応募をお待ちしています。
 ③使用言語:日本語

【17】社会理論と運動・紛争研究
 ①コーディネーター:濱西栄司(ノートルダム清心女子大学)
 ②趣旨:
 社会学は、フランス革命後の混乱や社会の崩壊状況にあって、現状を多角的に分析し、新しい社会を予見・再構成すべく誕生した学問であった。それゆえ当初から闘争や紛争、群衆、抗議、革命、組合、団体、社会主義運動、社会運動について積極的に論じてきたし(Stein、Weber、Durkheim、Simmel、Tarde など)、その後のさまざまな社会理論も、抗議や紛争、運動に関する考察を、しばしば理論の中心に、あるいは周辺や土台に組み込んできたといえる(Parsons、Luhmann、Eisenstadt、Wallerstein、Foucault、Habermas、Touraine、Castells、Melucci、Giddens、Beck、Bauman、Honneth、Urry、Harvey など)。
 だが社会学の専門分化、及び、おおむね1990 年代以降の運動・抗議研究の中範囲理論化のなかで、国際的なレベルでも社会理論と社会運動研究の結びつきは薄れていった。そのような状況にあって近年、Social Theory and Social Movements: Mutual Inspirations(2014)やGlobal Modernity and Social Contestation(2015)のように、社会理論と運動・抗議研究をふたたび本格的に結びつけようという動きがみられるようになっている——その背後には2010 年代以降の様々な運動の盛り上がり(「アラブの春」やオキュパイ運動の伝播、反緊縮や反EU の運動、排外主義運動のグローバル化など)があり、また欧米中心の社会理論・運動理論の非西欧圏への無批判的な拡張に対する不満がある。日本でも徐々に、従来の運動理論への違和が語られるようになっており、また理論研究の再活性化や欧米理論の相対化の必要性も改めて聞かれるようになっている。
 そこで本セッションでは、社会理論研究と運動・紛争研究を再び本格的に結びつけるような研究発表を募集したい——先行研究として理論に少し触れる程度ではなく。いわゆる「社会運動理論」の研究だけでなく、上述の諸理論・学説などにおける運動・紛争の位置づけに関する研究、多様な諸理論(モダニティ論やシステム論、機能主義、あるいは構築主義、相互作用論、言語論・語用論、さらには正義論や民主主義論、またアジア・日本発の諸理論など)と運動・紛争との関係性に関する研究なども想定している。
 ③使用言語:日本語

【18】保育と子育て支援の社会学
 ①コーディネーター:上野善子(鶴見大学)
 ②趣旨:
 日本においては、長期間にわたる少子高齢化の趨勢に伴う人口変動や外国人労働者受け入れ抑制政策などのため、労働力供給が減少している。こうした中、政府は、女性の労働力を活用するため、税制や保育に関わる家族政策や長時間労働是正などの労働政策の充実を図ってきた。しかし、必ずしも奏功しているわけではない。
 他方、多くの既婚女性は、配偶者の収入が低下する傾向のなかで、職を得て世帯収入を確保する必要に迫られている。また、未婚率が上昇し老後への不安が高まったり、シングルマザーの貧困が社会問題化するなど、単身女性にとっても労働と収入機会の確保が重要な課題になっているのである。
 さて、女性と労働の問題は、子育てや保育の問題に直結する。日本では、男性の家事労働負担の少なさや家族単位の縮小のなかで、女性の子育て負担は過大になっている。「保育所落ちた、日本死ね」というセンセーショナルな言葉が国会で取り上げられ、待機児童問題の深刻さが共通認識となっているにも関わらず、状況の改善はみられない。それどころか、保育所の建設反対運動や無認可保育園での虐待死、子育てシングルマザーの貧困など、社会問題が山積している。これらは各々の個人や家庭の問題ではなく、行政や地域、NPO など多様な主体が手を携えて取り組むべき課題である。
 こうした課題を克服して女性労働力を活用するためには、個々の女性や家族に解決を依存するのでなく、これまでその役割とされていた家庭内での子育てがさらに社会化される必要があろう。現実的にも、3 歳児神話や待機児童などの問題はあるが、子育ての機能が社会化され、専門家の関与が強まる傾向がさらに進展するものと思われる。
 本セッションでは、家族の形態や女性の役割変化の趨勢を踏まえ、保育の在り方、特にその専門家の養成に関連した諸問題を、社会学的な視点から議論したい。
 ③使用言語:日本語

【19】グローバル化の中の社会運動と集合行動
 ①コーディネーター:鵜飼孝造(同志社大学)
 ②趣旨:
 2016 年はイギリスのEU 脱退を決めた国民投票、アメリカでのトランプ大統領誕生に象徴されるように、多くの国で移民に対する排他的な感情があきらかになった年だった。その意味で1990 年代以降のグローバル化の潮流が大きく逆転しはじめた年だったといってもいいだろう。それを受けて、研究者としても、社会運動や集合行動の意味をもう一度問い直していく必要があるのではないだろうか。
 昨年の大会と同じテーマでのセッションとなるが、どの時代のどの対象を扱うにせよ、そのようなグローバル化の逆転に新たな視点を提供する報告を歓迎する。
 各研究発表の視角は自由であるが、以下の3 点に特に注目したい。
 1)運動のグローバルな性格:ここでいうグローバルとは、運動のグローバルな連帯、あるいは反グローバリズム運動のことだけではない。運動の多くはローカルな環境に対する危機感から生まれるが、そこにグローバルな資本主義や貿易体制の身近な浸透を読み取ることが、現在の社会運動にとって重要な要素となっている。「グローバル」の意味をあらためて考えたい。
 2)運動のネットワーク的な編成:運動にとって、それぞれが対立する国家の体制や政府がとる政策の違いを無視することはできない。他方、近年の運動はいかなる立場からであれ、インターネットやSNS など世界共通の情報インフラやメディアを基盤としており、運動がもつメディア文化も個人が参加する上で大きな動機付けとなっている点に注目したい。
 3)運動を支える個人の感情:かつての運動は、組織の統制と個人の主体性を両立させることが大きな課題であった。しかし、イデオロギーの影響が弱くなると、個人として運動にどのような意味を見いだせるのかが決定的に重要となる。反面、それはヘイトスピーチやポピュリスト的な政治言説に敏感な環境も生み出している。近年の運動の個人主義的感情的な側面に注目したい。
 以上の3 点のうちいずれか、あるいは2、3 点について、近年の社会運動および集合行動の事例に基づきつつ、斬新な視点からの研究発表の応募を期待する。
 ③使用言語:日本語(英語による発表も可)